正岡子規と夏目漱石がウルっとくるほどの親友だったとは!
「ノボさん」伊集院静著
正岡子規といえばあの有名な俳句を詠んだ人
柿食えば 鐘がなるなり 法隆寺
情景と音がいっぺんに思い浮かぶようで、一度聞いたら忘れられない俳句です。
正岡子規の句だとは知っていましたが、彼については大した知識もなかった。
子規は明治の俳句界を牽引した人だ、とは学校で習ったような気がする。
でも実際彼が何を成し遂げたのか、どれだけの存在だったのか殆ど知りませんでした。
柿食えば…の句は有名でも、俳句に暗い私には、他の句は思い浮かばないもの。
でもそれ以外に何をした人?
結核で早世したという何とな〜く暗いイメージが付きまとう明治の俳人。
あの有名な横顔の白黒写真、それが子規でした。
伊集院静氏の「ノボさん」を読むまで。
「ノボさん」を読んで知る子規の功績と魅力
この作品を読んで初めて正岡子規が現代に残した功績がとんでもなく大きかったことを知りました。
なあんて言うと堅苦しいけれど、子規はとにかくパッションとパッションの人だったのだなあ、と驚かされた。
漢籍の覚えも早く、子供の頃から将来を嘱望された彼。
ノボさん、ノボさん、と家族からも親戚からも大事にされ育ちます。
その子規が大学ではべーすぼーるに夢中になり、
寄席通いに明け暮れ、
そして文学の世界にのめり込んでいきます。
人並外れたエネルギー!
とにかくそれら全部にかけるエネルギーが半端ない!
自分が興味を持った全てに惜しみなく、周りの人を巻き込み、自分の持つ全てを注ぎ込む熱量がすごい。
若き夏目漱石との出会い
帝大の予科で、彼は生涯の親友となる同い年の友と出会います。
共に国文学を学ぶ夏目金之助、後の夏目漱石。
漱石といえば明治を代表する大文豪ではあるけれど、またこれが暗〜いイメージ。
こめかみに手をやって遠くを見ているあの有名な写真は神経質そうで、周りの凡人を受けつけない感じがする。
漱石とのウルッとくるほどの親交
その漱石が自分とは全く性格の違う子規と気が合い、どんどん親交を深めていきます。
「ぞなもし」を連発する明るく外交的な松山出身の子規と、内向的で癇症な江戸っ子の漱石。
その二人が一緒に好きな寄席に行き、好物の牛鍋を食べ、好きな文学について語り合う。
俳句を送り合ってかなりシャイな感じでお互いの意見を聞いていたりもする。
漱石が松山に子規の生家を訪ねたり、短い間ではあったけど2人で同じ家をシェアしていたこともある。
子規の結核が重くなった時も漱石は親身になって友を気遣います。
これがね、何だかとってもウルっとくる。
自分の知人でもないのに、「ああ、漱石にもそんなに大事に思う友人がいたんだ」みたいな感慨がありました。
俳句を文学として確立させたい!
一方子規。
在学中既に病気を発症していました。
しかし日本の古典である俳句の体系作りという大事業に文字通り心血を注いでいきます。
当時俳句といえばご隠居の慰み、早い話が「年寄の暇つぶし」のように見られていました。
外国の文学がどんどん入ってきて文学の価値やスタイルが変化していく頃でもあった。
歴代の俳句を体系化する、という大事業
このままでは俳句の文学的価値はおろか表現の可能性まで消えてしまう。
子規はそれまでバラバラだった俳人や俳句の年代、流派などを全て分類し、体系作りをしていきます。
その量たるや途方もなく膨大なのですが、これを編纂するだけに彼の仕事はは留まりません。
病床にありながら精力的に活動を続ける
新聞には記事を書き、文学集「ホトトギス」を発刊し、自分を慕ってくる文士のために自宅を文学サロンとして開放する。
同居する母親と妹の献身的な介護と補助あってのことではありました。
けれど重くなる一方の病と闘いながら続ける彼の文学への献身ぶりというか執着ぶりというか、
「オレがやらねば誰がやる」的な使命感と途方もない情熱は一体どこから来ていたのか。
「もう時間がない」と思う気持ちが一層彼を押していたのか。
俳句には自分の生涯を全てかける価値がある、と思っていたのか。
最後の最後まで疾走していた感のある子規の生涯でした。
子規がいなかったらサラダ記念日も生まれていなかったかも?
はっきり分かるのは、正岡子規がいなければ今のように俳句が日本の大事な文学の一つとして今のようには残っていなかったであろうということです。
サラダ記念日も多分生まれていなかったし、夏井いつきさんもこんなに活躍していなかったかも知れない。
親友の死を留学先イギリスで知った漱石
それにしても留学先のイギリスで友の死を知った漱石の喪失感は如何ばかりであったか。
遠くに居ても親友がいると思うのと、そうでないのとでは雲泥の差がある。
漱石もその後イギリス留学を終えて日本へ戻り、教職を経てから小説家への道を進むわけですが。
明治の大文豪の道もそう安らかなものでは無かった。
子規のような親しい友達が生きていたら、漱石の執筆人生もまた少し違ったものになったかも知れない。
漱石のイメージが変える小説でもあった「ノボさん」
全く蛇足なんですが、私が通った東京下町の小学校では、
「夏目漱石はこの小学校の在校生だったのよ、つまりあなた達の先輩!」
と事あるごとに先生達が引き合いに出していました。
その事を誇りに思いなさい、と常々言われていた。
小学校の頃なんて漱石と言われても、子供向けに優しくかいつまんで書かれた「坊っちゃん」や「吾輩は猫である」ぐらいしか読んだこともなかった。
「ノボさん」を読むと漱石は子供の頃、2度も養子に出されて2度とも生家に戻されている。
不遇、といってもいい生い立ちです。
どうやらその途中転校を繰り返した際に、私の母校にもちょっとの間だけ在学していた程度だったんじゃないかなあ。
彼にとってその小学校での思い出がいいものだったかも疑わしい。
でも「私達のセンパイ」と刷り込まれて育ち、意味も無く近しいように思っていたせいでしょうか。
漱石が子規と育んだ友情の親密さをとても嬉しく感じたのです。
ワクワクすることに命を捧げた子規の生涯
それにしても正岡子規。早世したには違いないけれど。
考えてみれば、若くて、昼も夜も寝る間も惜しいくらいに考えるくらいの好きなものがあって、
それを共有する友達がいて、応援してくれる仲間がいて、愛してくれる家族がいて、
これ以上の事ってそうそうあるもんじゃないよね〜。
ちょっとでも俳句はもちろん全く興味がある人も無い人も、
ワクワクするって何だろうっ!?」て思う人にもおすすめの一冊です〜。
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