「猫を棄てる(村上春樹)」感想
「猫を棄てる(村上春樹)」を読んだ。
読み終わった感想は正直、題名から想像する内容の100倍も重い話であった。
でもそれ以上に、多くのことを私に考えさせてくれる本でもあった。
(ちょっとネタバレもあるので、何も知りたくないよ!という人はこの感想文を読まないでね)
タイトルからしてちょっと暗い内容?
「タイトルからしてちょっと暗い内容じゃないかな?」
と思いながら本屋で手に取ったのだ。
「捨てる」じゃなくて「棄てる」という漢字をわざわざ使ってある!
「捨てる」は「ゴミのポイ捨てはやめよう!」とか、日常で軽く使われる感がある。
一方「棄てる」は、「核廃棄物」とか「秘密文書廃棄物」とか、持っていてはマズイものをどうにか処分してしまうイメージが強い。
または「棄権」など、やむにやまれず責任回避…とかね。
それを猫に使う?
何となく気になって(怖いもの見たさで)本屋さんで手に取ったのだ。
本当にあった話?
本書で「猫を棄てる」ことについては冒頭にサラッと書いてある。
小学生の春樹君が、ある日お父さんに連れられて、家の飼い猫を捨てにいく。
それも長年飼っていた猫をわざわざ自転車で遠くに捨てにいくのだ。
春樹君はその理由を知らない。
ただお父さんに連れられていく。
お父さん、なんで?
これは確かに「棄てる」行為だよね。
それも何で子供を連れて行くの?
謎だ…
その結末自体は(ホッとしたことに)胸を撫で下ろすものだった。
けれど村上氏の「父がどういう人であったのか」を辿る心の旅は、ここから始まっていくのだ。
お父さんの軌跡を追う旅
村上氏の祖父は京都の大きなお寺の住職さんであった。
故に村上氏の父親は仏教を学ぶ学校に通っていた。
それでも戦争が始まり、まだ学生のお父さんも徴兵されてしまう。
そして中国に送られる。
それが何の事情か送還されたものの再び徴兵されて中国へ送られ、また日本に戻され、また中国の師団へ送られる。
3回も徴兵されている、それも僧になる勉強の合間に戦争体験があるのだ。
全く相反するものを同時に存在させる、それも当人の意思と関係なく、強制的に。
青春期を戦争に翻弄される
言うに及ばず中国での日本軍の評判はすこぶる悪い。
戦争なのだからいいも悪いも無い、と言えばそうかも知れないが。
それでも当時の日本軍隊のありようは、国際法を無視した捕虜への待遇の酷さだけでなく、自国の兵士への非人間性でも知られている。(その全部では無いにしても)
歴史上でもことさら悪名が高いのだ。
戦争に取られた兵士の殆どが、いわば人間性を否定される、ないしは棄てることを余儀なくされる。
戦場ということで、普段の生活では絶対許されないことが日常として行われている。
もしくは自分がそれをやらされている、進んでやっている。来る日も来る日も。
「本当の自分はどこにあるのだろう?」
「自分が望むものはなんだろう?」
そう問い続けていても、疲れで、あるいは飢えで、ついには考えることもやめてしまうかも知れない。
子供から見る父親像
村上氏のお父さんが「決して欠かさなかった朝の日課」は、ガラスケースに入った仏像に向かってお経を唱えていることだった。
春樹少年は、どうして「それ」をするのかお父さんに尋ねたことがあるという。
「亡くなった戦友のため、戦争で犠牲になった人たちのためだ」というようなことを答えられたらしい。
それ以上は聞けないような雰囲気を察して(うん、分かるこの感じ)、それ以上は深入りしなかった。
何より朝の儀式をするお父さんの周りに近寄り難い、厳しい雰囲気があったという。
分かり合えない父と息子
村上氏のお父さんは90歳の天寿を全うされたそうだ。
結局、お母さんの猛反対もあってお寺を継ぐことはなく、国文の先生になられた。
生前は、村上氏と意見が合わないその他諸々の父子間の事情があり(あるある!)、20年間連絡も取り合わない時期があったそうだ。
若い時代を戦争に取られ、国家権力に翻弄されたお父さんの世代。
戦後に生まれ、自分のやりたいことだけを選んで生きようとした息子。
父親を理解できない息子。
息子を理解できない父親。
時代も、環境も、生き方も違う。
立っている場所が違いすぎる。
別に憎み合っているわけじゃ無いんだけどね。
ただ間に深い川があり、そちら岸には渡れない。
人が形成される上で一番影響を受けるのは?
人がその人となりを形成される過程で、何が一番影響するだろう?
育った環境に寄るもの一番大きいんじゃ無いかと思う。
そしてそれは選べない。
他の人がどんな環境に育ったのか、説明されてもそれを実感として想像するのは難しい。
だって自分に起こったことじゃ無いもの。
どれだけ大変だったか、苦しかったかと言われても、
「はあそうだったんですか、それは本当に大変でしたねえ」
と間の抜けた返事をするのが精一杯だ。
他人のことは「他人事」なのだ。
たとえそれが家族であっても。
人の戦争体験というものを想像できる?
特に「戦争体験」を交えたら?
それを経験したことが無い者にとっては、戦争体験なんて想像の範疇を超えている。
相手の立場になんて、まるで立ち様が無いではないか。
しかも、「個人の人格を変えてしまう」レベルの体験を強制的にさせられたら?
被害者でもあり加害者でもある立場に立たされたら?
まあこれは、想像するのも恐ろしい!
でも実際にあったのだ、そういう事実は、
いくらでも。
それも「戦争の臨時下」であるのを理由に、
「国家」という絶対的な名の下で。
「体験」が自分を作っている?
個人の体験というものは、それがずっと昔のこととなっても、その人の中に永久に存在する。
昔むかーしの取るに足らない事柄でも、普段はすっかり忘れていたことがフトした瞬間にヒュッと思い出されることがある。
「あれ、何で思い出したんだろう」
そう自分でもびっくりする。
そう言えば、あれがあったから次にああなって、そしてこうなって…と以前は考えもしなかった繋がりを見つけたりする。
今の自分がその古い思い出への道筋を瞬時につけたのだ、と納得する。
全ての体験が今の自分を作っているのだ、急にと自覚する。
辛い記憶とどう向き合う?
辛い経験や、強い負の感情を伴う体験なら尚更だ。
そのインパクトは大きく、その後の自分の考え方や生き方に少なからず影響を与えている。
良いにつけ悪いにつけ。
村上氏のお父さんが春樹少年に一度だけ戦争体験を話したことがある。
それは想像するだにかなり残酷なシーンで、
当然それは子供心に強烈に焼き付けられるものとなった。
お父さん、何でそれを子供に話すの!?
村上氏は後年、なぜ父がそれを幼い自分に話したか、何を息子に伝えたかったのかを推測する。
歴史を引き継ぐということはどういうことなのか。
村上氏は自身に問いかけている。
自分の役割、しいては小さな個々の役割についても。
これがこの本のテーマだったのか!
本書の半分ぐらい読んで、そこで初めて気がついた。
親と自分の関係を追う旅の意味
村上氏の「父親の軌跡を追う旅」は父親という人を理解するだけでなく、父と自分の関係性を追う旅でもある。
生前は上手くいかなかった関係だったそうだ。
(お父さんが亡くなる直前には和解している)
それでもその全てを含めて、今の自分を形成しているものだと氏は理解している。
多くの小さな事柄が積み重なった末の、偶然の産物である私たち。
その小さい粒のような個々である自分が何を継承して、何を伝えて行くのか。
それが正に氏が書きておきたかったことなのだと思う。
思わず自分のことを考えることに!
この「猫を棄てる」を読みながら、自分と自分の父との関係を考えずにいられなかった。
私の父は終戦時はまだ子供で、村上氏のお父さんのような兵役体験はなかった。
それでも戦争中の思い出をたまに語ることもあった。
それらの多くは「学校にっても毎日塹壕掘り」とか、
「わずかなジャガイモだけがその日の家族の全食糧」とか、
「先生に逆らえばビンタを食わされ」など、
どれも辛い体験ばかりだった。
当たり前だけど。
子供心にそれらは暗く怖い話であり、聞きたくもなかった。
「戦争」なんてそんな昔の話(実はそうでもなかった!と後になって驚く)、聞きたくもないよ。
そう思って聞かないふりをしていた。
ふんふんと相槌を打って、早く済まそうとしていた。
後悔しても遅いけれど
「ああ、何であの頃もっと父の話を聞いてあげなかったんだろう!」
今になって後悔とともに思う。
父の話も歴史の一つだった。
あの頃はそんな風に考えてみたこともなかった。
戦後の混乱期に青年期を過ごした父。
彼が時代にどんな影響を受けたのかも想像したことがなかった。
世代もあるが、多くの男の人がそうであるように、自分のことや心情を言葉にして語るのが得意な人でもなかった。
機嫌の移り変わりが激しい人でもあった。
話のキャッチボールが難しく、子供心に父の話が長くなるのが面倒くさかった。
ありがちと言えばそれまでだけど
親と長子にありがちなパターンだと思うが、親は初めての子供への期待が大きく、子供はその期待に応えられない。
私たちはその典型だった。(ように思う)
特に私の思春期から自分の方向性を決める年代に(わ、可愛げの無い年!)、その関係は決していいものではなかった。
振り返って言えば、近くにいる間はお互いを理解できなかったのだ。
というか、私自身に親を理解したいという気持ちがなかったのだ。
離れて分かりあう場合もある?
父との関係性が良くなったのは、私がイギリスで生活を固め、その距離が(地理的にも)決定的になってからだと思う。
父の方では「諦め」もあったのだろう。
その後しばらくしてから初孫の顔を見せた。
私が父を喜ばせた唯一のことかも知れない。
それから亡くなるまでの3年間が父と私の関係で、一番穏やかなものだった。
しかしその頃はインターネットも今ほどは一般家庭に普及していなかった。
元来マメとは程遠い性格の私。
遠距離を理由に密に連絡を取り合うことも怠っていた。
父の昔話を聞く機会も時間も失われてしまったのだ。
聞いてみたいことは幾らでもあった
あの頃に父と長く過ごす時間があったら、父の思い出話をもっと聞いただろうと思う。
戦争中の体験談をもっとを尋ねたと思う。
当時どんな痛みを伴ったか、
何が一番辛かったのか、
またどんな楽しみがあったのか、
どんな希望があったのか、
10代の父が戦後間もない東京に出てからどんな苦労があったのか、
どんな時代の移り変わりを見てきたのか、
聞いてみたいことは幾らでもあったはずだ。
当時を生きたその人の、感情が入った経験。
それが歴史では無いか。
若い頃は親との関係性よりも大事なものが沢山あり、何しろそれで精一杯だ。
自分が親から歴史を引き継ぎ、またそれを伝えて行くことで自分が歴史を作る小さな小さな一部となる。
この本を読むまでそんなことを考えてみたこともなかった。
本を読みながら自身の追体験を
「猫を棄てる」はほんの120ページほどの薄い本だ。
一晩あったら軽く読めてしまう、
それでもその数時間中に、私は自分の親と過ごした子供時代のあれこれを次々に思い出していた。
それらは村上氏が本書であげているエピソードの数々のように、どれも他愛もないものばかりだ。
古い背景に映される切れ切れのシーン。
楽しいものもあれば、そうでないものもある。
大した感情を伴わないものもある、でもなぜか覚えている。
そのどれも親と共有した体験であり、思い出でであり、今の私を作った要素でもある。
本を読みながら自身の追体験を
本書「猫を棄てる」を読み始めるまでは期待もしなかった、思わぬ自分自身の旅となったのだった。
私自身が娘に伝えて行くべきことって何だろうか。
何があるだろうか。
今そんなことを考えている。
私の世代も激しい社会の移り変わりを見てきた。
今も戦争があり、
一向に無くならない貧富の差や飢餓があり、
エネルギー不足、
食糧不足、
世界の分断、
地球温暖化問題もある。
過去から引き継いだものもあり、
近年新しく作り出された問題もある。
歴史は過去のものではなく、今現在もそれに続けて作られているものなのだ。
過去のものが忘れられてしまう前に、次の世代に伝えておくべきことは何だろう?
「ママたちが若い頃はスマホもインターネットも無くってね」
それを言っただけでもう旧石器時代ぐらいのジェネレーションギャップがあるのだけど〜。
「猫を棄てる」、オススメです。
台湾出身のアーティストであられるという高研さんのレトロ感漂うイラストも雰囲気を添えて時代感を添えていますよ!