ロックの女王ティナ・ターナー逝く

ロックの女王ティナ・ターナー逝く

元祖ロックンロールシンガーの一人、ティナ・ターナーが亡くなってしまった。

83歳だったと聞くが、癌を含むいくつも闘病を続けながらも、
70近くになるまで現役であの力強いパフォーマンスを届けてくれた女性だ。

生涯で累計8個のグラミー賞を獲得

累計8個のグラミー賞を獲得したというティナのヒットソングを挙げればキリがない。
思いついただけでも,

「Let’s Stay Together」(カムバックソングとなった)

「What’s Love Got To Do With It」(これが一番好きかなあ)

「Private Dancer」(アルバムは2000万枚以上売れたらしい!)

「We Don’t Need Another Hero」(映画マッド・マックスの主題歌、彼女も迫力ある女ボスとして出演している)

「Golden Eye」(同盟映画007の主題歌)

など、イントロを聴いただけで「ああ、あの歌」とすぐに分かるものばかり。
その一曲一曲に込める感情のパワーが伝わってくる、もの凄いシンガーだった。

亡くなってから最も取り沙汰されるのは?

数々の大ヒット曲、ミリオンセラーを果たしたティナ。
だが亡くなった今、一番大きく取り上げられているのが彼女の辛い過去についてばかりのようだ。
(イギリスのメディアに関して言えば)

彼女が最初の結婚で受けていたというDV被害についてだ。

その光が強いほど、影の部分が強く映る。
彼女の成功が大きければ大きいほど、そこに至る暗い話をクローズアップさせたいのがメディアの常のようだ。

BBCサイトにも追悼記事がいくつも載っているが、その殆どがそれが主題になっている。

デビューは60年近く前!

ティナ・ターナーは80年代のスターというイメージが強いが、実は60年代にデビューしている。
実に50年ものキャリアがあるのだ。

デビュー時はまだロックではなく、「リズム&ブルース」シンガーとしてだった。
アメリカ南部テネシー出身でもあり、時代的にもそれは自然な流れだっただろう。

「私の歌を聞いて欲しい」
R&Bバンド「Kings of Rhythm」にティナ自ら売り込みをかけたのはまだ17歳の時だった。
(すごい行動力だ)

バンドリーダーで、後に彼女の夫となるアイク・ターナーティナと出会ったのもこの時だ。
アイクは彼女の才能に驚いたに違いなく、ティナは程なくしてバンドのリードボーカルとなる。

時代が60年代から70年代へと音楽も変わっていく頃で、彼らの音楽もR&Bやカントリーロックを超えたものとなっていった。

夫とデュオとして成功するも

ティナとアイクはデュオとして「River Deep, Mountain High」「Proud Mary」などのヒットソングを生み出し、グラミー賞をも獲得する。

が一方。大きな成功を収めていた陰で、裏ではティナが激しいDVに遭っていたというのはその頃まだ知られていなかった。(公には)

古い映像を見るだにその当時もパワフルで明るいパフォーマンスを見せるティナ。
その彼女からは想像し難いが、実際はそれは激しいDVを日常的に受けていたという。

BBCの記事で読んだだけでも、ここに書くのも憚られるような凄まじい内容だ。
参照したBBC記事を読みたい方はこちらで

言うに言えない理由

あまりの辛さに自殺を考えたこともあったとティナは語っているが、それでも彼らの結婚生活は16年も続いた。

激しい暴力にあった後でも、それが落ち着くと「急に彼が可哀想になってきた」とも言っている。
恐怖や痛みよりも哀れみの方が優ってしまうとは。

DVシーンではよく聞く話ではあるが、当事者にはそこから簡単に抜けられない心理的作用があるのだ。

彼らには4人の子供もいたこともある。(内2人はアイクの連れ子)

また彼らに関して言えば、二人のパートナーシップそのものが、収入とキャリアを生み出していた。

2人の中をを解消することは、それまで築き上げてきた全てを失うことを意味する。
二重三重と縛られていた感がある。

自立してからのティナ

それでも永遠にDVに耐えられる人はいない。(最後まで耐えたら死んでしまう!)

「アイクとの生活の中で、私は死んでいるも同然だった」ともティナも後に語っている。

彼女は1978年、ついに彼の元を去る。
次に住む場所のあてもないままに、飛び出すように。

それからしばらくはラスベガスのショーなどをこなして生活を立てていたようだ。

アイクがつけた芸名ティナ、結婚名ターナーを使い続けたのは、やはり仕事を得るのにネームバリューを捨てたくなかったのだろう。
その辺複雑な思いもあったかと察せられるが。

ついにヒット曲が!

それからしばらくの間、いわゆる「鳴かず飛ばず」の日々が続いたが、1983年「Let’s Stay Together」がヒット。
1984年ついに同曲を含むソロデビューアルバムのリリースを果たす。

これがあの「Private Dancer」、
大大ヒットしてミリオンセラーとなったのはご存知の通り。

44歳にしての大カムバックを果たしたのだ。

自伝が映画化されるも

彼女のアイクとの経緯を取り沙汰されることは以前から多かったらしい。
それにケリをつける意味もあって、彼女はそれまでの私生活を綴った自伝「What’s Love Got To Do With It」を1993年に出版する。

「What’s Love Got To Do With It」は映画化され、ミュージカル劇にもなっている。
実際ティナが亡くなった時、ロンドンのウェストエンドではミュージカル「Tina]が再演されていた。
今も続く人気作品なのだ。

サバイバーと呼ばれる訳

私は映画の方は随分前に観たことがある。

オスカーノミネートになった主演女優アンジェラ・バセットの熱演もあったが、何よりも内容の凄まじさに仰天した。
あまり予備知識もなく観たので、途中「しまった、見始めるんじゃなかった」と後悔したほどだ。

「最後は彼女が成功すると分かっているのだから」だけを頼りに見続けたのだった(汗;)

もちろん映画は娯楽作品用に脚色されたものだし、よりドラマチックに作られているものではあるけれど。それにしても〜。

よく生き残ってこれたな。
受けた暴力だけではない、その半生の全てにおいて、本当サバイバーだ。
それが感想だった。

ティナの本当の魅力発揮

映画で一番感動したのはラストシーン。
ティナ本人が大観衆の待つステージに上がって歌い始めたところだ。

長い長い全ての道をを通ってきた後に彼女を待っていたもの。
そこで爆発するように歌い出すティナの声、観衆を熱狂させるその姿。

もっとも私にすればティナの存在を知ったのは80年代のヒットソングからだ。
純粋に歌だけが好きになったのだ。

「なんとパワフルなおばさんだろう、歌いっぷりがカッコええ〜」

後に自分の母親とそう変わらない歳と聞いてビックリしたが、

彼女の生い立ちや私生活がどんなものかなど特に興味もなかったし、考えたこともなかった。

それを抜きにしても彼女のパフォーマンスは際立っていたのだ。

自伝からくる悲喜交々

彼女の自伝をベースにした映画やミュージカルがヒットしたことで、彼女がより多くの注目と関心を集めたのは確かだろう。

自らの体験を公開したことが、他のDV被害に遭っている女性に対する呼びかけになると見る人もいれば、自分の私生活を切り売りするビジネスと揶揄する人もいる。

実際彼女が受けたインタビューでは彼女のDV体験に関するものがとても多い。(BBCによれば)

「それがあって、鼻を整形したんですが?」なんて聞いてくる輩もいるのだ。

一般の私たちは忘れがちだが、スターと呼ばれる人たちも一個の人間なのだ。

辛い体験を、特に暴力を受けた体験を何回も何回も話すように強制される、それも公けの場で。
それで人がどんなダメージを受けるのか、想像するのも恐ろしい。

彼女は2人の息子もすでに亡くしている、一人は自殺で。
それら全てが広く晒される、亡くなった後でも追悼記事で。
(それを読んでまた書いている私も私?)

スターになっても逃れられないもの、
スターになったから一層逃れられないもの、

そんなものにずっと追い回されていたんだろうか。
あの力強いパフォーマンスの裏で。

実力あればこそ!

それでも彼女の歌は、自分に降りかかる全ての厄災を振り切って輝くものだったと思う。

「あんな辛い目にあったから今の私があるのよ」的な押し付けがましさは微塵もなかった。

やはり彼女は音楽が、歌うことが好きだった、
それに尽きるんじゃないかと思う。

「自分はもっと良くなれるとずっと信じていた」
と彼女も語っている。

だから世代を超えた多くの人たちがその圧倒的なパワーに打たれたのだ。

スイスで穏やかに

ティナは61歳の時に一度はセミリタイヤを発表したそうだ。
後に再びステージに立つのだが、ガンや腎臓の病気など闘病も続いていたらしい。

50年の山あり谷ありのキャリアを積んだ人生。

最後はスイスで長きに渡るパートナー・アーウィンと共に穏やかな人生を過ごしていたそうだ。
(アーウィンはティナに自分の腎臓を提供したらしい)

スイスの景色を見て、
「私の山と谷はあんなものじゃなかったわ〜」
と彼女が思ったかどうか。

それにしてもなあ、
デヴィッド・ボウイも亡くなっちゃったし、もう。
サミシー。